私と言う存在は、相反する二つの魂の相互作用より漏洩する現象群の灯影である。
母は、私の次に女児を願っていた。
綴られた日記には必死に、しかし喜びをもって名前を与えようとする母の前向きな苦悩が染み付いていた。
私に兄弟姉妹はいない。
代わりに、私は内側から私でない者の声を聴く。
それはランダムな文字列であり、卑猥な妄想であり、杞憂の警告であり、私への批判である。
彼の者の思考は時に2週間前の私であり、私の言葉は時に3時間前のヤツである。
私は私といがみ合い、石を投げ、滅多刺しにし、私を否定する。私を否定する者を否定する。
そして私は変貌してゆく。私が成りたくなかったアイツに。私が成るとは思いもしなかった彼に。
そうして私は居る。一人で居る。
幾百足の歌を聞いた私を、幾千の夜を過ごした私を、幾万足を擦りむいた私を抱え、一人で居る。
家に居る。学校に居る。会社に居る。橋のたもとに居る。古本屋に居る。総武線に居る。セブンイレブンに居る。
私は私を見る、それは私でないけれど、それは私のいつかである。私はオルタネイティブである。私は彼である。彼は私である。私でない者は私の内部である。
そして私は失敗する。私は私が私でない事を知っている。私は予測不能である。制御不能である。理解不能である。
私は失敗する。
私は私ですら介入し得ない私を見る。
私は失敗する。
私は私を侵食する。
私は失敗する。
私は私が私であった事を忘却する。
私は失敗する。
そして私は一人である。
ずっと。
塗料と電飾と火薬の鮮煌彩渦の中に在れども
灰色は灰色。
魂の依り処が無い
と言うのは、一つの強さかも知れない
何かが"存在する"という状態
とは、周囲と比較して相対的に"何かの存在"を示す値が高い、という現代物理学の研究に基づき、私は絶対的な存在意義/価値/理由に対しての自在性奔放性を獲得するものである。